萬福寺(まんぷくじ)
洛南宇治、妙高峰のすその、萬緑の古松が千歳不変の法を語るが如き景勝の
地に、明朝様式の諸堂伽藍が整然とたたずむ黄檗山萬福寺は、日本三禅宗
(臨済・曹洞・黄檗)の一つ、黄檗宗の大本山であり、本宗専門道場がおかれて
います。
ご開山は、中国明末の臨済宗を代表する密雲円悟禅師や費隠通容禅師の法を
受け継ぎ、臨済正伝三十二世となられた隠元禅師です。禅師は二十九才の時、
中国福建省にある黄檗山萬福寺で出家され、十七年ものあいだ各地で修行された
のち中国黄檗山の住持となられました。禅師は前後十五年間、多くの諸堂伽藍を
重興され、経典・語録類の出版による文書伝道にも努められました。隠元禅師の
語録は日本の地へも伝播しておりましたので、京都のお寺でも禅師の存在に注目
する人々があらわれてきました。
当時の日本は鎖国時代で、唯一の門戸が海外へ開かれていたのは、中国とオラ
ンダとの交易港であった九州の長崎だけでした。時あたかも、その長崎の唐寺
より住職としてお迎えしょうとする運動がおこりました。再三にわたって日本
より招請を受けられた禅師は、ついに1654年、長崎へ渡来されることとなり
ました。禅師は臨済正宗の大法をかかげて妙法に行じられましたが、隠元禅師
東渡のしらせに日本の各地から大勢の修行僧が禅師のもとへ馳せ参じてきました。
新しく中国より導入された道場生活に接した人たちによってその特徴を、仏戒を
よく保つことを”持戒禅”と、また新しい授戒法である「三壇戒會」(仏教徒や
僧へなるための儀式)の実施によって、”授戒禅”と呼ばれました。のちに隠元
禅師の弟子となられる妙心寺住持の龍渓禅師、後水尾法皇、四代将軍家綱公らの
尊崇ほか、朝野をこえて多くの帰依を得られ、禅師の道風は益々高いものとなり
ました。
1661年、萬福寺が建立された宇治の地を古黄檗(中国黄檗山)よりとって同じく
黄檗山と名付けて晋山されることになりました。中国の黄檗山とは、この黄檗の
木(和名きはだ)が多く生育していたことに由来する山号です。日本では古く
奈良時代頃から漢薬や染料として用いられたものです。健胃整腸生薬の原料と
なり、経本や衣服を黄色に染める染料となる樹木です。また黄檗山は臨済義玄の
師である黄檗希運禅師の出家修行の地として有名です。萬福禅寺の名は、明国の
萬暦42年(1614)に神宗皇帝より賜わった勅号です。
出典:拝観用パンフレット
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